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富士常葉大学 |
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しかし、そのことに気付いている人は意外なほど少ない。多くの日本人にとって、川の流れがあまりに身近にあるためだろうか。このことをとても残念に思うのは、単に郷愁を持って懐かしむからではない。今を生きる子ども達の健やかな育ちのために、たくさんの不思議とたくさんの生き物との出会いに満ちた水辺を回復したいと願うからである。 青々と水を湛えた水面から、ぬぷっと河童が顔を出してもおかしくないような、そんな雰囲気を持つ大淵が日本中の村々から消えつつある。川が蛇行部にさしかかると、水は荒々しく走り白波を立てて淵に流れ込み、岩陰に渦を巻きやがて、ゆっくりとまどろむ。そして、次の瀬に向かい静かに加速をつけて行く。この瀬と淵の繰り返しのリズムが、川の本来の姿であった。 しかし、多くの場所で河道が直線化され、川は無表情に淡々と流れるようになった。コンクリートの硬い護岸が、いっそう水辺の表情を奪い、無機的な印象を強めている。自然環境に配慮された川づくりがこれからの重要な課題である。 もちろん、何十年に一度の洪水に備えることが重要なことはうなずける。しかし、身近なところにありながら、流域住民や子ども達との日常的な関わりを拒む川の姿には疑問である。子どもが水辺に近寄ると、これまでの川は「良い子はここで遊ばない」の看板が迎える。子どもにとって楽しい体験の宝庫である川は、安全性に無配慮なまま、拒絶的であった。河川管理者という権威が安全管理の美名の下で、子ども達からこの魅力あふれる空間を奪っていたのである。 間近に控えた週五日制の完全実施や学校教育における総合的学習の時間の開設のためにも、ふるさとの中で生き生きと存在感を発揮する川であって欲しい。そして、流域住民や子ども達との関係を、流域の暮らしの中に再構築するということが大切なことである。 メダカやドジョウが見つからない。どこに消えてしまったのか、かつてどこにでもいたはずのありふれた自然が、いまや懐かしいものとなり貴重性を増している。絶滅の心配される野生生物についてその記録を整理したいわゆるレッドデータブックには、私たちにとって子ども時代からなじみの深い生き物がたくさん記載されている。 以前は里の至る所で見られたもの達が、貴重種としてマスコミで持てはやされることは、実はさみしいことなのだが。深山幽谷や離れ小島の珍しい自然ではなく、里山や小川などの身近に息づいている自然こそが、私たちの守るべき対象である。それはこれから育つ子ども達の精神史に大きく作用する存在だからである。 メダカやドジョウと同様に珍しくなったのが、野を駆け川に遊ぶ子ども達の群れだ。塾やゲーセン(ゲームセンターの略)に群れる子どもの密度と比べるまでもなく、野外に戯れる子どもの群れは稀である。自然度の高い水辺に好んで出現する川ガキ(川遊びする子ども)や、野山をしばてんのごとく駆け回る山ガキこそ、正に絶滅危惧種である。 ガキ大将の下で異年齢の子ども達が徒党を組むこの集団には、縄張りと厳しいおきてがあった。その生態は地域環境の特性に深く根ざし、季節によって拠点や軌跡が変わった。こうした地域の自然と共に逞しく育つ子ども達の伸びやかな姿は、もはや見ることはできないのだろうか。いや、彼らは都市化された環境の中で、絶滅したわけでは決してない。子どもというしたたかな生き物には、不思議大好き・自然大好きという野生本能が大人よりはるかに宿っているはずである。だから、日常関わる身近な自然が生き生きと蘇りさえすれば、川ガキ山ガキは至る所で復活するだろうと確信している。 しかし、不思議大好き・自然大好きという本能に彼らが目覚めても、ガキ大将を据えた野武士や馬賊のような先鋭化した集団にはなかなか育たないかもしれない。地域毎に門外不出であった野遊びの極意や群れを治めるおきてなどの伝承は、既に途切れて久しい。地域のとっておきの場所や遊び方は、子どもから子どもへと伝えられてきたものだった。これらの知恵こそが大切なものであり、川に限らず、今日の環境教育で求められているものであると思う。環境教育は地域学習から始めるべきであると、筆者が常々主張していることである。 そこで、私達は地域密着型の環境教育の実現を目指して、川と里を舞台にガキ大将を養成する事業を始めている。たくさんの子ども達が夢中になって参加できる活動が、ここから生まれている。身近な川の大いなる自然を活かすために、川のあり方と共に、川をどのような方法で子ども達に手渡していくかというソフトの開発に取り組んでいるところである。乞うご期待。
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略歴 |
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